ブログでも写真でも文を書いていたり撮影している時は自分でも最高のものを作っていると、俺は天才だと錯覚しちゃうんですよね。
でもね、できあがった写真のネガを見る。ちょっと天才じゃないかなと錯覚する。プリントする写真を選ぶ。もう天才じゃないなと錯覚する。印刷された写真を見る。下手くそだと確信する。と段階的にさがっていっちゃうんですよ。
これはブログでもおなじなんです。だからできるだけ書きためた文章を公開するときは読み返さない事にしているんですけどね、やっぱり良いものにしたいと思い弄っちゃった結果、怪文書が完成する。
気分の落ち込みがよりよい怪文書生成のポイントかもしれません。
熊の手ってありますよね。あれがなんで右手ばっかで左手が置いてないかというとまぁ利き手じゃない左手てうんちしたお尻を拭いているかららしいです。
これが果たして本当なのかどうかは言っていた人(祖母)がもうすでに彼岸の人なので確かめようもないのですが…
私はこの考えにかなり納得しています。が、しかし、もし仮に利き手が左手の熊がいるとしてその熊の右の手が居たとしたらそれはもうある種のホラーですよね。
でもね、糞の成分で多少発酵した左手もそれはそれで珍味の中の珍味、つまり珍珍味として一部界隈の変態から絶大な支持を得ているのでは?と考えてしまいます。
皆さんはどうでしょうか。
糞も調理の仕方によっては美味しくなるのかもしれません。
実際ジャコウネコのウンコから作ったというコーヒーは世界中のウンコしか勝たん!と仰っている紳士たちの舌を唸らせ性器を奮い起たせているのだとか…
糞はどう足掻いても糞なのに。
人間は生まれながらにして罪を背負っているのです。それはキリストにもどうすることもできない罪なのです。
その罪はもしかしたらどうすることもできない性癖を持っているという罪なのかもしれません(?)
南無阿彌陀仏